自称100歳越え、ベドウィンのお爺ちゃん2009-12-01 10:29

死海からアカバに向け、
ヨルダン中部の砂漠地帯をドライブ中のこと、
こんな看板が立ってました(↓)


気になったので見に行こうと、
国道をはずれ、閑散とした道を約20キロ走行(↓)


砂漠の中の寂しげな村到着(↓)


村人もちらほら(↓)


村の中を走るとこんな所に到着(↓)


興味津々、見に行ったところ、管理人のおじさん登場。
ここはヨルダン中部Dana自然保護区の中にある、エコロッジでした。
村の中にあるのは受付のみで、宿は砂漠の中。
時間がなくて見にいけなかったのですが、
後でネットで見たらこんな素敵な所でした(↓)

FEYNAN ecolodge

宿は舗装されていない砂漠の中のため、見に行けなかったので、
とりあえず、管理人のおじさんと話はじめました。
アラブ人はとにかくおしゃべり好き。
10分も話せば生まれてからの現在までの自分史を全て話し出します!

ところで、おじさんが双眼鏡で何かを見てたので(↓)
「おじさーん、何見てるの?」


「羊とラクダ。うちとご近所さんのものだよ。」
「本当だ、おじさん、管理人業と牧畜の二重商売だね」
「そうさ。そうさ。ほら双眼鏡で覗いて、様子がおかしければ、
こうして携帯電話で家畜の近くにいる人に方向転換とか指示するのさ。」
写真のど真ん中(↓) 豆粒みたいにおじさんの羊が写っています。


その後、おじさんのおしゃべりは止まらず、
「自分はラシャイデ家のベドウィン(砂漠の遊牧民)、
38歳だ。妻は2人、子供は12人。子供はこれ以上増やさないぞ。
少し前まではベドウィンとして生活していたけど、
政府の定住化政策で村生活をはじめたのさ。
我が家はあそこ(2階建ての家(↓))、晩御飯食べに来ない?」
と、こんな調子。


ちなみにイスラム教では妻は4人まで認められていますが、
ヨルダンの場合、複数の妻を持つケースを見るのはごくまれ、
例えあったとしてもこうした地方部の村社会、部族社会の名残がある箇所で、
都心部で複数の妻がいる人とは私は会ったことはないです。

ヨルダンのベドウィン、
人口規模として多いのは、
アンマン郊外ザルカ地域を拠点とするベニ・ハッサン家
それと「アラビアのロレンス」でもお馴染のフエタット家
フエタット家はヨルダン南部のマアーンという町から東に展開、
ロレンスはマアーンでフエタット家から3000人のベドウィン兵を参集し、
アカバを攻め落としました。

歴史的にカウボーイのように勇敢で強豪なベドウィンとして有名なのは、
アンマン南からマダバまでを拠点としたベニ・サハル家
ヨルダン中を駆け巡り、村人たちから農作物を徴収し、
かつては村人との衝突もしばしばあったようです。

38歳のおじさんと話していたら、
横からお爺ちゃん登場!
お爺ちゃんとおじさん(↓)


「我はアブ・ファルハン。ラシャイデ家のベドウィンじゃ。」
アブ・ファルハンとは「ファルハンのお父さん」という意味です。
ヨルダンでは年配の人等、尊敬の念を込めて男性を呼ぶときは
その人本人の名前ではなく、
『(息子の名前)のお父さん』と呼びます。
古風な人は自分のことを『(息子の名前)のお父さん』と自己紹介したりもします。

「こんにちは、アブ・ファルハン。で、お爺ちゃんの名前は何ですか?」
「Audi (アウディ)じゃ」
ヨルダンで良く、Audiという名前を見かけ、
私のここでのメインバンクもレバノン系のBank Audi
てっきりドイツ車のaudiの真似でもしているのかと思ったら、
ベドウィンの間ではポピュラーな名前みたいです。

「お爺ちゃん、お歳はいくつ?」
「100歳超えてると思うんだけど。赤ん坊の頃はオスマン帝国がまだヨルダンを支配していたよ」
「オスマン・トルコがヨルダンから撤退したのは1918年。お爺ちゃんは92歳ぐらいかな?」
「うーん、計算できんわ。わしはいくつじゃろう?」

お爺ちゃんのおしゃべりもとまらず、
「若い頃はラクダと平行して走ったぞ!」
「毎日ラクダのミルクを飲んで、力持ち!」(ラクダのミルク、飲んだことありませんが、栄養価が高く、万病に効く、癌にも効果ありとここでは言われています)

「今は目だけが悪いけど、この通り自分の足でどこでも行けるぞ!」
「オムラに2回行ったぞ!」(オムラとはイスラム教徒のメッカ小巡礼。生涯のうち一度は行くことがすすめられているハッジと呼ばれるメッカ大巡礼とは区別されています)

「わしは正直者じゃ!」
「人を欺いたことがない!」
「妻は4人。でもわしはもう一人身じゃ。」
「子供は8人いたが、7人死んでしまった。神(アッラー)がそれを望むのであればしょうがないさ。」
(砂漠の厳しい環境の中で生きたかつてのベドウィン。特に幼少期を生き抜くのは簡単な事ではありませんでした。)

延々としゃべり続けたお爺ちゃん、
「じゃあ、お祈りに行くから、失礼するよ。またどこかで会おう!あなたに神のご加護がありますように!」とお爺ちゃんは地面を何度もキスして去っていきました。

なんともおもしろいお爺ちゃんでした(↓)

イスラム教犠牲祭&羊&ヨルダンでも穀物価格高騰の影響?!2009-12-03 12:00

11月27日から30日はイスラム教の犠牲祭(イード・ル・アドハー)の連休でした。
犠牲祭はこの時期行われるメッカへの大巡礼(ハッジ)の後のお祝いです。
羊がいけにえとして捧げられ、
家庭によっては羊を丸々一匹おろし、親族間で分け合ったり、
場合によっては貧しい人に配ったりすることもあります。

この通り、デパート等、街中では羊の飾りでいっぱい(↓)


砂漠の中の国道を走っていると
普段は砂漠地帯の奥深くにいるベドウィン(砂漠の遊牧民)も、
この時期なぜかしら国道沿いに移動してきます。
(写真は死海沿いに移動してきたベドウィン、テント暮らしです
おそらく、家畜の羊を売るためだと思います。


この連休、寒くなったアンマンを抜け出し、
昼間はTシャツでも過ごせる暖かいアカバへ来ました。
さっそく羊料理を作ろうと、ローカルマーケットに買出しです。

肉屋の前で(↓)
売られてきた羊と地元の男の子。
ヨルダンの羊はどういうわけかお尻(ちょうどシッポのある箇所)から
30センチ四方程度の脂身の塊が、ぶらさがっています。
この脂身の塊が、これまた美味しいのです(日本では脂身等食べませんでしたが)


肉屋の前、羊の頭ちょっと怖いです(↓)
でも、食べ物に感謝するという意味で、
人によっては羊の頭も調理して食べます。


とりあえず、肉屋でラムチョップとなる背骨の箇所、
とっても柔らかくて美味しい部分を購入。
肉屋のおじさんに骨をとってもらいました(↓)


ヨルダン産の骨付きラム肉1.4kg購入、お値段は18ドルぐらいでした。
骨をとってもらった後は800g程度です。


ヨルダン産の羊は大変美味しいことで有名で、
ニュージーランド等からの輸入物より常に値段が高いです。
しかし、1年ぐらい前からヨルダン産のラム肉の値段があがりはじめ、
現地ではかつてない高級肉となってしまっています。
安い時では1kgあたり10ドル程度だったものが、今では15ドルです。
ヨルダン人は肉といえばラム肉を食べてきたのに、
大家族の家庭等、簡単には手が出せなくなってきた人もいます。
値上がりの原因の一つは穀物価格高騰です。

てっきり羊は放牧され、
草だけを食べているのかと思っていましたが、違うようです。

羊を育てているベドウィンたちは、1日の放牧を終えると、
羊に飼料を与えていて、
これが大豆や大麦のカス(ビール製造過程にできる麦の皮等)からなっています。

飼料の原材料価格が高騰したため、
ベドウィンも羊を維持できず、手放すことが多くなったようです。
これらの飼料に対し、政府が補助金を一時的に入れたこともあったようですが。

さらに、ヨルダン産のラム肉は美味しいことでも有名なので、
サウジアラビア等に流れることも多いです。
結果としてはヨルダンの市場に出回る羊の数が減って
高級肉となってしまっているのが現状です。

さて、購入したラム肉は八百屋(↓)で買った野菜とともに調理しました。


煮込みです(↓)


お味は超ジューシー。
暖かい気候の中、外でビールとともに(↓)絶品です!


食べ残したラム肉も翌日トマト煮込みに(↓)
ヨルダン産のラム肉は本当に美味しいですよ!

非日常の絶景、ワディ・ラム砂漠ツアー2009-12-10 12:59

ヨルダン南部のワディ・ラム(Wadi Rum)では砂漠ツアーが楽しめます。


ワディ・ラムは南北130kmに伸びる2km幅の岩山の間に広がる砂漠です。


第一次世界大戦において、
オスマン帝国はドイツと同盟を組み、中東戦を展開しました。
一方で、アラブは(この頃明確な国として存在せず)、
イギリス、フランスとの連合国側と同盟を組み、
オスマン帝国と戦うことになりました。
この際、アラブの諸部族に協力するために、
イギリス軍から若い士官トーマス・エドワード・ロレンスが送り込まれました。

ワディ・ラムは映画「アラビアのロレンス」の撮影中心地であったと同時に、
1916年-1918年の通称「アラブの反乱」において、
ロレンスが拠点の一つとした地でもあります。
(「アラブの反乱」については人により意見も様々、
欧州諸国に誘導され、アラブの自発的な行動ではないとの意見もあります)

さて、現在のワディ・ラムはエコツーリズムの考えに基づいた運営がなされ、
観光業には地元のベドウィン(砂漠の遊牧民)が従事しています。

観光情報はこちら(↓)
WADI RUM, Desert of Mountains


砂漠の中は登録された車両で入ります(↓)


ベドウィンの男の子が運転してくれました(↓)


広大な砂漠の中を四駆が走ります(↓)


周囲の岩山も長い年月をかけて浸食したことがわかります(↓)


そして所々、古い文字が岩山に描かれています(↓)


どこまでも続く砂、残るのは小さな足跡のみ(↓)


沈む夕日(↓)


夕日があたりオレンジ色に輝く岩と砂(↓)


ワディ・ラムでの宿泊はテントです(↓)


12月から3月は夜がとても冷え込むこと、
砂嵐も多くなるので、
この時期は避けたほうがいいかもしれません。

夏だと外で星空の中、眠れるようですし。
私は12月に行き、運悪く夜は砂嵐となり、テントに吹き付ける、
砂の爆音で全く眠れませんでした。

映画ですさまじい砂嵐と超越した自然の威力の中、
ロレンスが自分の行く末を一人悩む光景が思い起こされました。

夜の砂嵐から一夜あけて、
朝の砂はこんな波模様(↓)


テントでのキャンプ、
晩御飯は砂の中で食材を蒸し焼きにした(↓)
ベドウィンスタイルです。

死海大展望、穴場観光スポット2009-12-11 23:56

「死海」と聞くとまずは、プカプカ浮きに行こうと思いませんか?
でも、死海を囲う山々からの眺めも絶景なのです(↓)


ここはDead Sea Panorama Complex(↓)

日本の支援により建設されました。


アンマンから死海に向けて30分程走り、
死海沿岸に立つホテル群ではなく、
山側(↓)を10分程上るとたどりつきます。


小さな博物館と(↓)


レストランがあります(↓)


死海を見渡すテラス席(↓)
休日にブランチし、日が沈むまでのんびりお茶しするのも最高です


山沿いの散策路もあり(↓)


歩きながら(↓)、遠くの対岸イスラエル/パレスチナも望めます


これは展望台ではなく、ホテルから見た夕日(↓)
太陽とともに移りゆく死海の様子はとても幻想的です。

ヨルダンの世界遺産、秘境ペトラ遺跡2009-12-13 09:54

ヨルダンで必ず訪問すべき観光スポット、それはペトラ遺跡です。

映画「インディ・ジョーンズ」シリーズ3作目、「最後の聖戦」で、
聖杯が隠されていた宝物殿は、ペトラ遺跡にあるのです。

まずは、この小規模な岩の間を抜け(↓)


切り立った岩間を1km以上歩きます(↓)


すると目の前は
砂岩をくり抜いて作られた神殿、エル・ハズネ(↓)
紀元前1世紀~後2世紀頃の建造と考えられています。


エル・ハズネだけを見て満足して帰る観光客も多いのですが、
ペトラ遺跡はまだまだ続きます(↓)


疲れたらラクダ、ロバ、馬などに乗れます(↓)

観光エリア内を隅から隅まで直線で歩いても往復10km以上はあります。
しかも後半は山道。
岩の山道を歩き通すと本当に疲れるので
復路の3kmをロバに乗りましたが、何とも助かりました!


ペトラ一帯は紀元前7000年前からの居住痕跡があり、
何世紀もの時を越えた重層的文化の結晶と言えます。

ペトラの豊かな都市文化形成に最も貢献したのが、
紀元前6世紀頃から定住をはじめた、
アラブ系のナバタイ人です。

この地域が106年頃にローマ帝国に支配された後は、
数多くのローマ都市建造物が建設されましたが、
4世紀頃の大地震以降、人々はだんだん住み着かなくなり、
7世紀頃のイスラム軍、12世紀頃の十字軍の砦に利用された以外は、
ほとんど日の目を見ることがなくなりました。

ナバタイ遺跡、ローマ遺跡、数々の神殿、寺院、教会、
墳墓、劇場、お城の中をひたすら歩きます(↓)


山道も登り(↓)


するとエド・ディルに辿り着きます(↓)
これも1世紀頃建設されたナバタイ人の神殿です。
真西に面していて、夕日がまっすぐに神殿に注ぎ込みます。


山道はまだまだ続きます(↓)


そして、アラバ渓谷へ(↓)


歩いて上った渓谷頂上(↓)
空が近くなった気分になりますよ


とても一日では見切れないペトラ遺跡ですが、
なんと全体の5%しか発掘されていなく、
数々の謎を秘めているのです。
隅々まで見たいのであれば、最低1泊することをおすすめします。

イエスが洗礼を受けたヨルダン川2009-12-16 10:44

ヨルダン川はイエス・キリストが洗礼者ヨハネにより、洗礼を受けた場所です。

その場所は、べサニー(バプティズム・サイト)と呼ばれ、
観光スポットでもあり、クリスチャンの巡礼地の一つでもあり、
ここで洗礼される方も多いようです。

これが現在のヨルダン川(↓)


ヨルダン川はヨルダン北部のウンム・カイス遺跡からも見える、
イスラエルのガリラヤ湖からヨルダン渓谷を南下し、
死海に流れ込みます。

かつては純然たる流量がありましたが、
現在はヨルダン、イスラエルのそれぞれの国で、
ヨルダン川から農業用水を確保しているため、
流量が随分と減ってしまいました。

30歳のイエスはガリラヤ湖の西にある、
ナザレと呼ばれる町(現在はイスラエル領)からやってきて、
死海に程近いヨルダン川で洗礼を受けました。

当時イエスが洗礼を受けたとされる教会は
この通り発掘調査がされています(↓)


このように教会から階段がヨルダン川まで続き、
おりきった所が洗礼の場所です(↓)


川の流れが変わり、現在の水辺まで近づけるポイントです(↓)


対岸はイスラエルです(↓)


ヨルダン川の水が鉢に入れられ(↓)
聖なる水として持ち帰る人もいるようです。


川の周辺はブッシュ(↓)


そして、世界各国のキリスト教宗派が
ここにそれぞれの教会を建設中です(↓)

ヨルダンの小さな世界遺産、アムラ城2009-12-21 12:30

イスラム教は610年頃、ムハンマドがメッカで、
唯一神アッラーの啓示を受けたことに起源します。
イスラム初期の王朝としてウマイヤ王朝(661年-750年)があり、
その勢力はアラブ半島、北アフリカ、西アジア、スペイン、ポルトガルまで及びました。

ウマイヤ王朝の首都はシリアのダマスカスですが、
そこから250kmも離れた、ヨルダン東部の砂漠の中に、
ウマイヤ王朝時代の712年から715年頃に建造された、
アムラ城と呼ばれる、小さな別荘があります(↓)


ウマイヤ王朝には14代のカリフ(イスラム王朝の最高権威者の称号)がおり、
アムラ城は第6代のワリード1世が使用したものと考えられています。

アムラ城は周辺に全く何もない砂漠の中(↓)にたちます。


大広間と2つの小部屋とお風呂から構成される、とても小さな建物です。
都市遺跡であるペトラとは規模が全く違いますが、世界遺産に指定されています。

建物の背後から(↓)
天井がヴォールト形状となっているのが良くわかります。


外から見ると何の変哲もない石積みの建物ですが、
中に入ると劣化はしているものの、
天井も壁も一面のフレスコ画、床はモザイク。

天井のフレスコ画(↓)

壁面には裸婦と宴の様子が描かれ(↓)


近くのAzraq(アズラック)オアシスにいた動物たち
渡り鳥、鹿、猿、弦楽器を弾く熊の様子も(↓)


床にはモザイク(↓)


お風呂に水を入れるため、井戸を掘り(↓)
風呂場まで水を汲みいれるポンプシステムをつくりました。


お風呂の天井はドーム(↓)、ここにも天体図に由来する絵が描かれています。


建物の管理人のおじさん(↓)
話しかけたら、アラビア語の発音が少し風変わりだったので、
ドゥールズ(Druze)と呼ばれる、部族の人だと思います。

ドゥールズの人々はシリアを起源とし、
ヨルダンには2万人程度いると言われ、
大半がアンマン東のアズラック周辺に住んでいます。
アラブ系であり、宗教もイスラムを基本としているのですが、
ドゥールズ社会のみで受け継がれる、門外不出の価値観と宗教観があり、
ヨルダンにいる同じアラブ系の人々にとっても謎が多いとされています。


当時の首都ダマスカスは緑豊かな地でした。
しかしイスラム教はサウジアラビア砂漠の中のメッカに起源し、
もともと砂漠の厳しい環境で生まれ育った当時のカリフとその一族が、
生まれ故郷のノスタルジーを求めて、
首都ダマスカスから250kmも離れた何もない砂漠の中に小さな別荘をたて、
余暇を過ごすためにわざわざラクダで何日も旅してきたこと。

周辺で狩を楽しみ、さらに、砂漠の中であるにもかかわらず、
立派な水ポンプシステムをつくり、お風呂をつくり、
色とりどりのフレスコ画やモザイクに囲まれ、
食事や音楽、踊り子との宴を楽しんだこと。

外観だけを見るとアムラ城がなぜ世界遺産に指定されているのか、
はじめは不思議に思いましたが、
無味乾燥した広大な砂漠の中に、それに対比する形で
小さなアムラ城内には潤沢な水、そして至るところに裸婦の画、愉快な動物の絵、
さらにはカリフの気を引き締めるためか敵対する長までもを描き、
イスラム初期のカリフがいかに豊かな生活を送っていたかを考えると、
彼らの生きる楽しみ、娯楽を追い求める精神には感服できると思います。