ヨルダン東部砂漠の中のハラナ城 ― 2009-12-25 12:28
アンマンの東は砂漠地帯、
この砂漠地帯の中を走る国道40号線(↓)は
イラクへの陸路入りのルートの一つで、
物資を運んだトラックの往来等があります。
アンマンから東に60km程走ると砂漠の中に建つ
ハラナ城(Qasr Kharanah)に到着します(↓)
一辺が約35mの四方形(↓)2階建ての石積み建物で、
用途ははっきりしていません。
ローマ時代かギリシャ時代に建てられた建造物の上に、
ウマイヤ王朝時代の8世紀前半に増築をし、
隊商宿として利用されたのではないかと考えられています。
建物はの外周には細長い小さな窓と
(内側の階段室から見た細窓↓)
建物内部への入り口があるのみです(↓)
内部に中庭があり(↓)、
中庭に対して各部屋の開口部が大きく開放されています。
内装は土壁です(↓)
外部に向かう窓の位置がやや上にあるため、
この窓は弓矢等の軍事目的ではなく、
単なる明かりとり、砂・風除けだったのではないかと思われます。
お城の入場受付の近くにベドウィンのテントがあり(↓)
観光客用のレストハウスでした。
外があまりにも寒かったので(冬の砂漠は風が強くとても寒いです)飛び入りました。
テントはヤギの毛等で織られています。
中に入ると、ベドウィン(砂漠の遊牧民)が迎えてくれました(↓)
左の男性は26歳、右は20歳、ベニ・サハル家だそうです。
ベニ・サハル家はかつてのヨルダンでは最強のベドウィン一族として知られていました。
日本人と同じようにアラブ人もお客さんに対して、
お茶やコーヒーをもてなします。
これはコーヒー豆を潰す、杵と臼(↓)
一昔前のヨルダンの家庭には必ずあり、お客さんの前でトントンたたいたそうです。
テントの中は電気がないため、コーヒー豆をこれでトントン潰してくれました。
テントの入り口に魚の化石が置いてありました(↓)
このあたりの砂漠の中にこうした化石が沢山転がっているとのことで、
かつてはここは一体どんな所だったのか不思議に思いました。
この砂漠地帯の中を走る国道40号線(↓)は
イラクへの陸路入りのルートの一つで、
物資を運んだトラックの往来等があります。
アンマンから東に60km程走ると砂漠の中に建つ
ハラナ城(Qasr Kharanah)に到着します(↓)
一辺が約35mの四方形(↓)2階建ての石積み建物で、
用途ははっきりしていません。
ローマ時代かギリシャ時代に建てられた建造物の上に、
ウマイヤ王朝時代の8世紀前半に増築をし、
隊商宿として利用されたのではないかと考えられています。
建物はの外周には細長い小さな窓と
(内側の階段室から見た細窓↓)
建物内部への入り口があるのみです(↓)
内部に中庭があり(↓)、
中庭に対して各部屋の開口部が大きく開放されています。
内装は土壁です(↓)
外部に向かう窓の位置がやや上にあるため、
この窓は弓矢等の軍事目的ではなく、
単なる明かりとり、砂・風除けだったのではないかと思われます。
お城の入場受付の近くにベドウィンのテントがあり(↓)
観光客用のレストハウスでした。
外があまりにも寒かったので(冬の砂漠は風が強くとても寒いです)飛び入りました。
テントはヤギの毛等で織られています。
中に入ると、ベドウィン(砂漠の遊牧民)が迎えてくれました(↓)
左の男性は26歳、右は20歳、ベニ・サハル家だそうです。
ベニ・サハル家はかつてのヨルダンでは最強のベドウィン一族として知られていました。
日本人と同じようにアラブ人もお客さんに対して、
お茶やコーヒーをもてなします。
これはコーヒー豆を潰す、杵と臼(↓)
一昔前のヨルダンの家庭には必ずあり、お客さんの前でトントンたたいたそうです。
テントの中は電気がないため、コーヒー豆をこれでトントン潰してくれました。
テントの入り口に魚の化石が置いてありました(↓)
このあたりの砂漠の中にこうした化石が沢山転がっているとのことで、
かつてはここは一体どんな所だったのか不思議に思いました。
オアシスの中のアズラック城 ― 2009-12-26 14:59
アンマンから東に約100km、砂漠を走るとアズラック・オアシスに到着です。
ここはバグダッドからエルサレムまでのラクダで旅したアラブ商人の交易の要衝であり、
さらにイスラム教徒がメッカ巡礼へ向かうための宿場町でもありました。
アズラック(Azraq)の町に近づくとこの通り緑(↓)
アズラック・オアシスと呼ばれる所以は、
12,710平方kmの(レバノンの国土面積よりも広い)大湿地であったことです。
1977年にはラムサール条約にもとづいて、
アズラック・オアシスが国際的に重要な湿地帯であると宣言されています。
しかし、近年に入り、人口増加、都市化が進むにつれ、
アズラックの湿地は首都アンマンの上水道の重要な水源地となり、
さらにアズラック地域での農地の灌漑用水ともなりました。
そのため地下水位が著しく低下し、農地も拡大したことにより、
湿地特有の生態系を見るのは難しい状況となっています。
さて、交易の要衝だったアズラックの町の中にはアズラック城があります(↓)
建造時期は明確ではありませんが、
場内には300年頃のものと思われるギリシャ文字の石版(↓)が残っています。
また、ウマイヤ王朝時代(661年-750年)には
第6代カリフのワーリド1世が狩や軍事拠点にしたと考えられ、
その後、アイユーブ朝(1169年-1250年)、
オスマン帝国(1288年-1922年)でも使用されました。
「アラビアのロレンス」でお馴染みのトーマス・エドワード・ロレンスも1917-1918年頃
アズラック城をオスマン帝国の支配に対する反乱のための拠点としました。
アズラック城の入り口です(↓)
入り口の上に見張り台があり、縦長の細窓は弓矢を射るためのものです。
軍事基地であったことから、入り口はとても小さく、ドアは1トンはある石製です。
ドアを押しているのは、管理人のおじさん(↓)
アズラック周辺に多く住む、ドゥールズ(Druze)と呼ばれる部族出身とのことです。
入り口と抜けると広い中庭(↓)軍隊のベースです。
ロレンスの執務室であった部屋の窓(↓)
軍事目的で弓矢を射りやすく設計された窓であったことがわかります。
敷地内に鹿やネズミなど湿地にいた色々な動植物が描かれた石版がありました。
こんな石版も(↓)ちびまる子ちゃん?!
かなり時代を遡りますが、発掘調査によるとアズラック湿地には
象やチーター、ライオン、カバ等もいたそうです。
アズラック城は1927年の地震で建物が随分と崩壊しました。
このようなアーチ構造は至るところで見ることができました(↓)
ところで、アズラックの町はずれ、ベドウィンのテントがありました。
テントの中は発電機がない限り電気はありませんが、
この通りなんとパラボラ・アンテナがしっかり設置されてました(↓)
ここはバグダッドからエルサレムまでのラクダで旅したアラブ商人の交易の要衝であり、
さらにイスラム教徒がメッカ巡礼へ向かうための宿場町でもありました。
アズラック(Azraq)の町に近づくとこの通り緑(↓)
アズラック・オアシスと呼ばれる所以は、
12,710平方kmの(レバノンの国土面積よりも広い)大湿地であったことです。
1977年にはラムサール条約にもとづいて、
アズラック・オアシスが国際的に重要な湿地帯であると宣言されています。
しかし、近年に入り、人口増加、都市化が進むにつれ、
アズラックの湿地は首都アンマンの上水道の重要な水源地となり、
さらにアズラック地域での農地の灌漑用水ともなりました。
そのため地下水位が著しく低下し、農地も拡大したことにより、
湿地特有の生態系を見るのは難しい状況となっています。
さて、交易の要衝だったアズラックの町の中にはアズラック城があります(↓)
建造時期は明確ではありませんが、
場内には300年頃のものと思われるギリシャ文字の石版(↓)が残っています。
また、ウマイヤ王朝時代(661年-750年)には
第6代カリフのワーリド1世が狩や軍事拠点にしたと考えられ、
その後、アイユーブ朝(1169年-1250年)、
オスマン帝国(1288年-1922年)でも使用されました。
「アラビアのロレンス」でお馴染みのトーマス・エドワード・ロレンスも1917-1918年頃
アズラック城をオスマン帝国の支配に対する反乱のための拠点としました。
アズラック城の入り口です(↓)
入り口の上に見張り台があり、縦長の細窓は弓矢を射るためのものです。
軍事基地であったことから、入り口はとても小さく、ドアは1トンはある石製です。
ドアを押しているのは、管理人のおじさん(↓)
アズラック周辺に多く住む、ドゥールズ(Druze)と呼ばれる部族出身とのことです。
入り口と抜けると広い中庭(↓)軍隊のベースです。
ロレンスの執務室であった部屋の窓(↓)
軍事目的で弓矢を射りやすく設計された窓であったことがわかります。
敷地内に鹿やネズミなど湿地にいた色々な動植物が描かれた石版がありました。
こんな石版も(↓)ちびまる子ちゃん?!
かなり時代を遡りますが、発掘調査によるとアズラック湿地には
象やチーター、ライオン、カバ等もいたそうです。
アズラック城は1927年の地震で建物が随分と崩壊しました。
このようなアーチ構造は至るところで見ることができました(↓)
ところで、アズラックの町はずれ、ベドウィンのテントがありました。
テントの中は発電機がない限り電気はありませんが、
この通りなんとパラボラ・アンテナがしっかり設置されてました(↓)























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