黄金色の町、サルト2010-01-12 07:32

アンマンから北西に約30kmに、
人口8万人程度の小さな町、サルトがあります(↓)


現在のサルトの特徴は19世紀後半から20世紀前半に建設された、
黄色身を帯びた砂岩を用いた家々による独特のまち並みです。
夕暮れになると、まち全体が黄金色からオレンジ色に変わり、
丘陵地に建つこともあって、
一面に広がる建物の色彩は訪れた人を魅了します(↓)


そもそものサルトの起源は、紀元前300年頃、
アレキサンダー大王統治時に軍事拠点の一つとして発祥したと考えられています。

そのため、町の周囲には古くからの居住痕跡も点在しています(↓)


古くから交易拠点や行政拠点として栄えてきた小さな町ですが、
現在のサルトの都市の容貌は19世紀以降に形成されたものであり、
日本の城下町に極めて似た構造を持っています。
(もちろんサルトは城を中心とした都城ではないのですが)

町の周囲は小高い山々に囲まれ、オリーブ栽培農家も多いです。
これは知人の週末別荘(↓)、趣味でオリーブ栽培を行っていました。


丘陵地のため利用できる土地面積が限られる一方、
交易拠点でもあったことから町の中心部は居住空間や商業空間、行政空間等、
様々な都市機能を集約する必要が発生しました。

そこでこれらの空間を限られた道で連結するため、
路地が発達しました(↓)


一方で道幅の広い幹線道路は限りなく最小限に抑えられました(↓)
主要都市交通が車となった現代では渋滞の原因とはなっていますが、
この独特の都市骨格が19世紀のまち並みを保存できた一因でもあります。


つまりは、人口が飛躍し、都市交通手段も大きく変化し、
行政機能とサービスの充実のため、より多くの土地を必要とする
現在の都市構造においては、地理的・地形的制限をうけるサルトでは
対応しきれないと当然考えられます。

こうしたことまでを当時の統治者層が考慮したかどうかは分かりませんが、
実際20世紀中頃サルトをヨルダンの首都にすることも検討したようですが、
結局はサルトはそのまま放置され、
アンマンを首都として開拓していくことになりました。

丘陵地なので、続く階段道(↓)

坂道も続きます(↓)


サルトのもう一つの特徴は町と住人の距離がとても近いこと。
例えば路地の真上にせり出すバルコニー(↓)
ここから住人が道行く人と挨拶をしていた姿が想像できますね。


さらに丘陵地なのでどの家のバルコニーからも町を一望でき(↓)
町の様子が刻々と変化する様を住人の誰もが知り得たと思われます。


居住面積も限られていたことから、
人々は対話の場所をまち中に求めました。
これはお爺ちゃんたちの寄り合い(↓)
町の広場で毎日囲碁のようなゲームを楽しんでいます。


そして都市の活力の最大のバロメーター、市場(スーク)です。
商店と人々の距離がとても近いことが分かります(↓)


近くの農家の露店も点在し(↓)
ここで挨拶や値段交渉、日々の出来事の情報交換を通じて、
人々が対話していたのが想像できますね。


サルトのもう一つの特徴はクリスチャンが多いこと。
これは町の中心の教会(↓)


交易都市であったことから、外部から来る人に配慮しつつも、
イスラム教徒とキリスト教徒がひっそりと肩を寄せ合い生活していました。

アレキサンダー大王の故郷、デカポリス・ペラ2010-01-08 08:24

「デカポリス」という言葉を聞いたことがありますか?

これはデカポリスの一つ、アンマンから130km北にある
タカバト・フィル、通称ペラという町の跡です(↓)


古代の列柱が並んでいるのが見えます。
ここは東方遠征により空前の大帝国を創設し、
ヘレニズム時代を開いた、
アレキサンダー大王として知られる、
アレクサンドロス3世(紀元前356年~323年)の生まれた町です。

アレキサンダー大王により東方に展開したギリシャ文化は、
やがてはヘレニズム文化に形を変え、
インドや中国を経由して日本にも到来しました。

さて、「デカポリス」とは何か?
古代ギリシャには、都市とその周辺地域が独立した政体をなす
「都市国家」が存在していました。
広域の領域支配を行う単一国家が存在しない地域においては
複数の都市国家同士で同盟を組み、政治体を形成していました。

1世紀頃のヨルダン、シリア、パレスチナ地域一帯には
ローマ帝国時代、地中海東側の拠点となる都市がいくつか点在しており、
これらの都市が同盟を組んでおり、
それを「デカポリス」と呼んでいました。

「デカポリス」とはギリシャ語で十の都市国家(デカ:十、ポリス:都市国家)という意味です。

おそらく当初は十の都市だったのかもしれませんが、
最終的には十以上の都市が加盟しています。

ちなみに「ドデカポリス」、(ドデカ:十二、ポリス:都市国家)という言葉もあります。
(日本語で聞くと変ですね)

以下の都市がデカポリスに該当します
(未だ未確認の都市もありますが、大半の都市は聖書の中にも当時の様子について記載されています。)

現名称     (旧名称)
↓           ↓
【ヨルダン】
アンマン     (フィラデルフィア)
ウンム・カイス  (ガダラ)
ジェラシュ     (ゲラサ)
タカバト・フィル  (ペラ)
クゥエイルベ  (アビラ)
ベイト・ラス   (カピトリアス)
イルビッド    (アラベラ)

【パレスチナ】
ベス・シアン  (スキュトポリス)
ヒッパス    (ヒッポス)

【シリア】
クナワット   (カナタ)
ダマスカス   (ダマスカス)

デカポリスに加盟していた都市間は舗装道が敷かれ、
馬車や早馬が走り抜け、政体を保っていました。

あいにくペラを訪れたのは秋で、天候も悪かったのが残念です。
ペラはヨルダンの中でも一番早くに春が訪れ、
一面のお花畑になることで有名なので、
暖かくなったらまた来たいと思います。

観光客用にペラ遺跡を望む小さなレストランがあります(↓)


欧米人の観光客で賑わっていました(↓)

オアシスの中のアズラック城2009-12-26 14:59

アンマンから東に約100km、砂漠を走るとアズラック・オアシスに到着です。
ここはバグダッドからエルサレムまでのラクダで旅したアラブ商人の交易の要衝であり、
さらにイスラム教徒がメッカ巡礼へ向かうための宿場町でもありました。

アズラック(Azraq)の町に近づくとこの通り緑(↓)


アズラック・オアシスと呼ばれる所以は、
12,710平方kmの(レバノンの国土面積よりも広い)大湿地であったことです。

1977年にはラムサール条約にもとづいて、
アズラック・オアシスが国際的に重要な湿地帯であると宣言されています。

しかし、近年に入り、人口増加、都市化が進むにつれ、
アズラックの湿地は首都アンマンの上水道の重要な水源地となり、
さらにアズラック地域での農地の灌漑用水ともなりました。
そのため地下水位が著しく低下し、農地も拡大したことにより、
湿地特有の生態系を見るのは難しい状況となっています。

さて、交易の要衝だったアズラックの町の中にはアズラック城があります(↓)


建造時期は明確ではありませんが、
場内には300年頃のものと思われるギリシャ文字の石版(↓)が残っています。


また、ウマイヤ王朝時代(661年-750年)には
第6代カリフのワーリド1世が狩や軍事拠点にしたと考えられ、
その後、アイユーブ朝(1169年-1250年)、
オスマン帝国(1288年-1922年)でも使用されました。
「アラビアのロレンス」でお馴染みのトーマス・エドワード・ロレンスも1917-1918年頃
アズラック城をオスマン帝国の支配に対する反乱のための拠点としました。

アズラック城の入り口です(↓)
入り口の上に見張り台があり、縦長の細窓は弓矢を射るためのものです。


軍事基地であったことから、入り口はとても小さく、ドアは1トンはある石製です。
ドアを押しているのは、管理人のおじさん(↓)
アズラック周辺に多く住む、ドゥールズ(Druze)と呼ばれる部族出身とのことです。


入り口と抜けると広い中庭(↓)軍隊のベースです。


ロレンスの執務室であった部屋の窓(↓)
軍事目的で弓矢を射りやすく設計された窓であったことがわかります。


敷地内に鹿やネズミなど湿地にいた色々な動植物が描かれた石版がありました。
こんな石版も(↓)ちびまる子ちゃん?!


かなり時代を遡りますが、発掘調査によるとアズラック湿地には
象やチーター、ライオン、カバ等もいたそうです。

アズラック城は1927年の地震で建物が随分と崩壊しました。
このようなアーチ構造は至るところで見ることができました(↓)


ところで、アズラックの町はずれ、ベドウィンのテントがありました。
テントの中は発電機がない限り電気はありませんが、
この通りなんとパラボラ・アンテナがしっかり設置されてました(↓)

ヨルダン東部砂漠の中のハラナ城2009-12-25 12:28

アンマンの東は砂漠地帯
この砂漠地帯の中を走る国道40号線(↓)
イラクへの陸路入りのルートの一つで、
物資を運んだトラックの往来等があります。


アンマンから東に60km程走ると砂漠の中に建つ
ハラナ城(Qasr Kharanah)に到着します(↓)


一辺が約35mの四方形(↓)2階建ての石積み建物で、
用途ははっきりしていません。


ローマ時代かギリシャ時代に建てられた建造物の上に、
ウマイヤ王朝時代の8世紀前半に増築をし、
隊商宿として利用されたのではないかと考えられています。

建物はの外周には細長い小さな窓と
(内側の階段室から見た細窓


建物内部への入り口があるのみです(↓)


内部に中庭があり(↓)
中庭に対して各部屋の開口部が大きく開放されています。


内装は土壁です(↓)
外部に向かう窓の位置がやや上にあるため、
この窓は弓矢等の軍事目的ではなく、
単なる明かりとり、砂・風除けだったのではないかと思われます。


お城の入場受付の近くにベドウィンのテントがあり(↓)
観光客用のレストハウスでした。
外があまりにも寒かったので(冬の砂漠は風が強くとても寒いです)飛び入りました。
テントはヤギの毛等で織られています。


中に入ると、ベドウィン(砂漠の遊牧民)が迎えてくれました(↓)
左の男性は26歳、右は20歳、ベニ・サハル家だそうです。
ベニ・サハル家はかつてのヨルダンでは最強のベドウィン一族として知られていました。


日本人と同じようにアラブ人もお客さんに対して、
お茶やコーヒーをもてなします。
これはコーヒー豆を潰す、杵と臼(↓)
一昔前のヨルダンの家庭には必ずあり、お客さんの前でトントンたたいたそうです。
テントの中は電気がないため、コーヒー豆をこれでトントン潰してくれました。


テントの入り口に魚の化石が置いてありました(↓)
このあたりの砂漠の中にこうした化石が沢山転がっているとのことで、
かつてはここは一体どんな所だったのか不思議に思いました。

ヨルダンの小さな世界遺産、アムラ城2009-12-21 12:30

イスラム教は610年頃、ムハンマドがメッカで、
唯一神アッラーの啓示を受けたことに起源します。
イスラム初期の王朝としてウマイヤ王朝(661年-750年)があり、
その勢力はアラブ半島、北アフリカ、西アジア、スペイン、ポルトガルまで及びました。

ウマイヤ王朝の首都はシリアのダマスカスですが、
そこから250kmも離れた、ヨルダン東部の砂漠の中に、
ウマイヤ王朝時代の712年から715年頃に建造された、
アムラ城と呼ばれる、小さな別荘があります(↓)


ウマイヤ王朝には14代のカリフ(イスラム王朝の最高権威者の称号)がおり、
アムラ城は第6代のワリード1世が使用したものと考えられています。

アムラ城は周辺に全く何もない砂漠の中(↓)にたちます。


大広間と2つの小部屋とお風呂から構成される、とても小さな建物です。
都市遺跡であるペトラとは規模が全く違いますが、世界遺産に指定されています。

建物の背後から(↓)
天井がヴォールト形状となっているのが良くわかります。


外から見ると何の変哲もない石積みの建物ですが、
中に入ると劣化はしているものの、
天井も壁も一面のフレスコ画、床はモザイク。

天井のフレスコ画(↓)

壁面には裸婦と宴の様子が描かれ(↓)


近くのAzraq(アズラック)オアシスにいた動物たち
渡り鳥、鹿、猿、弦楽器を弾く熊の様子も(↓)


床にはモザイク(↓)


お風呂に水を入れるため、井戸を掘り(↓)
風呂場まで水を汲みいれるポンプシステムをつくりました。


お風呂の天井はドーム(↓)、ここにも天体図に由来する絵が描かれています。


建物の管理人のおじさん(↓)
話しかけたら、アラビア語の発音が少し風変わりだったので、
ドゥールズ(Druze)と呼ばれる、部族の人だと思います。

ドゥールズの人々はシリアを起源とし、
ヨルダンには2万人程度いると言われ、
大半がアンマン東のアズラック周辺に住んでいます。
アラブ系であり、宗教もイスラムを基本としているのですが、
ドゥールズ社会のみで受け継がれる、門外不出の価値観と宗教観があり、
ヨルダンにいる同じアラブ系の人々にとっても謎が多いとされています。


当時の首都ダマスカスは緑豊かな地でした。
しかしイスラム教はサウジアラビア砂漠の中のメッカに起源し、
もともと砂漠の厳しい環境で生まれ育った当時のカリフとその一族が、
生まれ故郷のノスタルジーを求めて、
首都ダマスカスから250kmも離れた何もない砂漠の中に小さな別荘をたて、
余暇を過ごすためにわざわざラクダで何日も旅してきたこと。

周辺で狩を楽しみ、さらに、砂漠の中であるにもかかわらず、
立派な水ポンプシステムをつくり、お風呂をつくり、
色とりどりのフレスコ画やモザイクに囲まれ、
食事や音楽、踊り子との宴を楽しんだこと。

外観だけを見るとアムラ城がなぜ世界遺産に指定されているのか、
はじめは不思議に思いましたが、
無味乾燥した広大な砂漠の中に、それに対比する形で
小さなアムラ城内には潤沢な水、そして至るところに裸婦の画、愉快な動物の絵、
さらにはカリフの気を引き締めるためか敵対する長までもを描き、
イスラム初期のカリフがいかに豊かな生活を送っていたかを考えると、
彼らの生きる楽しみ、娯楽を追い求める精神には感服できると思います。

ヨルダンの世界遺産、秘境ペトラ遺跡2009-12-13 09:54

ヨルダンで必ず訪問すべき観光スポット、それはペトラ遺跡です。

映画「インディ・ジョーンズ」シリーズ3作目、「最後の聖戦」で、
聖杯が隠されていた宝物殿は、ペトラ遺跡にあるのです。

まずは、この小規模な岩の間を抜け(↓)


切り立った岩間を1km以上歩きます(↓)


すると目の前は
砂岩をくり抜いて作られた神殿、エル・ハズネ(↓)
紀元前1世紀~後2世紀頃の建造と考えられています。


エル・ハズネだけを見て満足して帰る観光客も多いのですが、
ペトラ遺跡はまだまだ続きます(↓)


疲れたらラクダ、ロバ、馬などに乗れます(↓)

観光エリア内を隅から隅まで直線で歩いても往復10km以上はあります。
しかも後半は山道。
岩の山道を歩き通すと本当に疲れるので
復路の3kmをロバに乗りましたが、何とも助かりました!


ペトラ一帯は紀元前7000年前からの居住痕跡があり、
何世紀もの時を越えた重層的文化の結晶と言えます。

ペトラの豊かな都市文化形成に最も貢献したのが、
紀元前6世紀頃から定住をはじめた、
アラブ系のナバタイ人です。

この地域が106年頃にローマ帝国に支配された後は、
数多くのローマ都市建造物が建設されましたが、
4世紀頃の大地震以降、人々はだんだん住み着かなくなり、
7世紀頃のイスラム軍、12世紀頃の十字軍の砦に利用された以外は、
ほとんど日の目を見ることがなくなりました。

ナバタイ遺跡、ローマ遺跡、数々の神殿、寺院、教会、
墳墓、劇場、お城の中をひたすら歩きます(↓)


山道も登り(↓)


するとエド・ディルに辿り着きます(↓)
これも1世紀頃建設されたナバタイ人の神殿です。
真西に面していて、夕日がまっすぐに神殿に注ぎ込みます。


山道はまだまだ続きます(↓)


そして、アラバ渓谷へ(↓)


歩いて上った渓谷頂上(↓)
空が近くなった気分になりますよ


とても一日では見切れないペトラ遺跡ですが、
なんと全体の5%しか発掘されていなく、
数々の謎を秘めているのです。
隅々まで見たいのであれば、最低1泊することをおすすめします。

宗教史の証人、アヤソフィア2009-11-25 09:52

トルコの世界遺産「イスタンブール歴史地域」にある、
もう一つの巨大宗教建築はアヤソフィアです。

ブルーモスクの正面に建ちます。

建立は360年、何度かの改修を経て、
537年以降このような荘厳な姿に再建されました(↓)
以後ギリシャ正教の総本山となりました。


中央には直径31m、高さ56mの巨大なドーム(↓)


15世紀以降はこの地域が
オスマントルコにより征服されたことにより、
教会はモスクへと改修されることになりました。

中央にはキリスト・聖母子像(イスラム期にはこのモザイク画は隠されていました)、
左右の円形プレートにはイスラム・アッラーの名が刻まれています(↓)


モスクへの改修にあたっては、建物外構に4本のミナレットが建設され、
室内にはメッカの方向を示すミフラーブが配置され(↓)
さらに壁面のキリスト教モザイク画等は漆喰で隠されることとなりました。


さて、ブルーモスクとの建築的な違いは、
回廊空間が平面上明確に示されていること(↓)


より早い時期の建築物であったことから、
施工技術にも限りがあり、
窓の数も限定されていることです(↓)


一方で、室内の壁面の面積が大きかったことにより、
見事なモザイク画やフレスコ画が描かれ(↓)


色とりどりの石が壁面を飾ることとなりました(↓)


アヤソフィアはトルコ共和国が成立以降は
宗教的遺構として位置づけられ、
現在は博物館として観光客に公開されています。