アンマンも年末年始はお祝いシーズン2010-01-03 15:05

クリスマス、年末年始はアンマンも賑やかなシーズンです。
ホテルやデパートも1月上旬頃までクリスマス・ツリーが飾られ(↓)
町の中もそこそこライトアップされています。


ヨルダンは92%近くがイスラム教徒で、6%程度のアラブ系キリスト教徒がおり、
イスラム教徒の行事・祝い事は別の時期にありますが、
クリスマスと1月1日は国民の休日になっています。
アンマンは仕事での駐在者やヨルダン人と結婚した外国人在住者が多いこと等から、
至るところでクリスマスや新年の祝い事があります。

ところで、イスラム教では他者をイスラム教に改宗することが
他者の幸福にもつながると一般的に考えられており、
他者を思う気持ちから改宗が(強要はされていませんが)勧められているため、
イスラム教徒との結婚の場合、親族との体裁上イスラム教に改宗する人もいます。
女性の場合必ずしも改宗は必須ではなく、子供は父親方の宗教を継承することになっています。

ヨルダン人と結婚している外国人の中には、
結婚届け上、イスラム教徒に改宗したことになっていても、
宗教は個人の考えまかせという家庭もあり、
お父さんはモスクに行くけど、お母さんは教会に通う、
宗教関連の祝い事はそれぞれの宗教にあわせて家庭の中でも行うといった、
国際結婚カップルを良くみかけます。

夫婦間で宗教が違うご家庭のお祝いにさそわれました(↓)
キリスト教徒の断食(宗派によりクリスマス前の数週間断食有り)明けのお祝いでした。


ユーロ圏出身のキリスト教正教会徒のお宅にも誘われました。
ご家族の守護聖人ニコライ聖人(サンタクロースのモデル)のお祝いです。
主が抱えている黒い塊は?(↓)


抱えてたのはこんなアフリカンなお方(↓)
頭の帽子はPKO(国際連合平和維持活動)のものです、
日本の自衛隊もかぶってましたよね。
主は元PKO関係者で、今はアンマンを拠点に西アジア(アフガニスタン等)、
中東(イラク等)、アフリカ(スーダン等)で活動する外国人の安全管理に従事中。


ヨルダンでは最近はアメリカやイギリスへ留学する人も増えましたが、
一昔前までは距離的な近さや学生受け入れ態勢の充実度等もあって、
旧社会主義国(ロシア、ウクライナ、ユーゴ圏)に留学していた人も多くいました。

NHK初代「うたのお兄さん」、
ビューティフル・サンデーの「田中星児」さんが、
かつてのユーゴスラビアを訪れた時、歌って、踊って、食べて(飲んで)、
自由気ままに生きる様に感激した様子をテレビで語っていたのを記憶しています。

どうもこの感覚、食べて、歌って、踊って、しゃべり好き、気ままな性格のアラブ人にも
一部通じるようで、旧社会主義系国との国際結婚カップルを良く見かけます。


年越しは去年も今年もユーロ出身者中心のパーティに参加(↓)
ここでも、ユーロ懐メロが流れれば、踊りは永遠に止まらず!


それぞれの国毎の時差に合わせ、
何回も新年あり、国毎の国歌斉唱あり(↓)


今年の一番人気ソングはこれ(↓)
1978年のラスプーチン


去年の一番人気ソングはこれ(↓)
1979年のジンギスカン

アレキサンダー大王の故郷、デカポリス・ペラ2010-01-08 08:24

「デカポリス」という言葉を聞いたことがありますか?

これはデカポリスの一つ、アンマンから130km北にある
タカバト・フィル、通称ペラという町の跡です(↓)


古代の列柱が並んでいるのが見えます。
ここは東方遠征により空前の大帝国を創設し、
ヘレニズム時代を開いた、
アレキサンダー大王として知られる、
アレクサンドロス3世(紀元前356年~323年)の生まれた町です。

アレキサンダー大王により東方に展開したギリシャ文化は、
やがてはヘレニズム文化に形を変え、
インドや中国を経由して日本にも到来しました。

さて、「デカポリス」とは何か?
古代ギリシャには、都市とその周辺地域が独立した政体をなす
「都市国家」が存在していました。
広域の領域支配を行う単一国家が存在しない地域においては
複数の都市国家同士で同盟を組み、政治体を形成していました。

1世紀頃のヨルダン、シリア、パレスチナ地域一帯には
ローマ帝国時代、地中海東側の拠点となる都市がいくつか点在しており、
これらの都市が同盟を組んでおり、
それを「デカポリス」と呼んでいました。

「デカポリス」とはギリシャ語で十の都市国家(デカ:十、ポリス:都市国家)という意味です。

おそらく当初は十の都市だったのかもしれませんが、
最終的には十以上の都市が加盟しています。

ちなみに「ドデカポリス」、(ドデカ:十二、ポリス:都市国家)という言葉もあります。
(日本語で聞くと変ですね)

以下の都市がデカポリスに該当します
(未だ未確認の都市もありますが、大半の都市は聖書の中にも当時の様子について記載されています。)

現名称     (旧名称)
↓           ↓
【ヨルダン】
アンマン     (フィラデルフィア)
ウンム・カイス  (ガダラ)
ジェラシュ     (ゲラサ)
タカバト・フィル  (ペラ)
クゥエイルベ  (アビラ)
ベイト・ラス   (カピトリアス)
イルビッド    (アラベラ)

【パレスチナ】
ベス・シアン  (スキュトポリス)
ヒッパス    (ヒッポス)

【シリア】
クナワット   (カナタ)
ダマスカス   (ダマスカス)

デカポリスに加盟していた都市間は舗装道が敷かれ、
馬車や早馬が走り抜け、政体を保っていました。

あいにくペラを訪れたのは秋で、天候も悪かったのが残念です。
ペラはヨルダンの中でも一番早くに春が訪れ、
一面のお花畑になることで有名なので、
暖かくなったらまた来たいと思います。

観光客用にペラ遺跡を望む小さなレストランがあります(↓)


欧米人の観光客で賑わっていました(↓)

黄金色の町、サルト2010-01-12 07:32

アンマンから北西に約30kmに、
人口8万人程度の小さな町、サルトがあります(↓)


現在のサルトの特徴は19世紀後半から20世紀前半に建設された、
黄色身を帯びた砂岩を用いた家々による独特のまち並みです。
夕暮れになると、まち全体が黄金色からオレンジ色に変わり、
丘陵地に建つこともあって、
一面に広がる建物の色彩は訪れた人を魅了します(↓)


そもそものサルトの起源は、紀元前300年頃、
アレキサンダー大王統治時に軍事拠点の一つとして発祥したと考えられています。

そのため、町の周囲には古くからの居住痕跡も点在しています(↓)


古くから交易拠点や行政拠点として栄えてきた小さな町ですが、
現在のサルトの都市の容貌は19世紀以降に形成されたものであり、
日本の城下町に極めて似た構造を持っています。
(もちろんサルトは城を中心とした都城ではないのですが)

町の周囲は小高い山々に囲まれ、オリーブ栽培農家も多いです。
これは知人の週末別荘(↓)、趣味でオリーブ栽培を行っていました。


丘陵地のため利用できる土地面積が限られる一方、
交易拠点でもあったことから町の中心部は居住空間や商業空間、行政空間等、
様々な都市機能を集約する必要が発生しました。

そこでこれらの空間を限られた道で連結するため、
路地が発達しました(↓)


一方で道幅の広い幹線道路は限りなく最小限に抑えられました(↓)
主要都市交通が車となった現代では渋滞の原因とはなっていますが、
この独特の都市骨格が19世紀のまち並みを保存できた一因でもあります。


つまりは、人口が飛躍し、都市交通手段も大きく変化し、
行政機能とサービスの充実のため、より多くの土地を必要とする
現在の都市構造においては、地理的・地形的制限をうけるサルトでは
対応しきれないと当然考えられます。

こうしたことまでを当時の統治者層が考慮したかどうかは分かりませんが、
実際20世紀中頃サルトをヨルダンの首都にすることも検討したようですが、
結局はサルトはそのまま放置され、
アンマンを首都として開拓していくことになりました。

丘陵地なので、続く階段道(↓)

坂道も続きます(↓)


サルトのもう一つの特徴は町と住人の距離がとても近いこと。
例えば路地の真上にせり出すバルコニー(↓)
ここから住人が道行く人と挨拶をしていた姿が想像できますね。


さらに丘陵地なのでどの家のバルコニーからも町を一望でき(↓)
町の様子が刻々と変化する様を住人の誰もが知り得たと思われます。


居住面積も限られていたことから、
人々は対話の場所をまち中に求めました。
これはお爺ちゃんたちの寄り合い(↓)
町の広場で毎日囲碁のようなゲームを楽しんでいます。


そして都市の活力の最大のバロメーター、市場(スーク)です。
商店と人々の距離がとても近いことが分かります(↓)


近くの農家の露店も点在し(↓)
ここで挨拶や値段交渉、日々の出来事の情報交換を通じて、
人々が対話していたのが想像できますね。


サルトのもう一つの特徴はクリスチャンが多いこと。
これは町の中心の教会(↓)


交易都市であったことから、外部から来る人に配慮しつつも、
イスラム教徒とキリスト教徒がひっそりと肩を寄せ合い生活していました。

アンマンのクリスチャン村、フヘイス2010-01-17 07:24

今年は中東全体で暖冬、今週末もとても家でじっとしていられない、
ポカポカ陽気です。

ということで、アンマンでも一番大きいショッピングモール、
City Mallに買い物に行ったあと、
そこから5km程度離れた、クリスチャンの村
フヘイス村(Al-Fuheis)にぶらぶらと出かけてみました(↓)


ここは特段観光地ではなく、住人の9割以上はクリスチャンで、
サルトにも程近い所にあります。

City Mallからフヘイス村への道のりはこの通り緑いっぱい(↓)


アンマンに住んでいて不思議に思うのは、5km、10km、15km、
といった短い距離を走るだけで
突然緑園地帯に出たり、砂漠に出たり、岩山に出たりで、
風景があっという間に変化すること。
高低差が著しいため、わずかな距離で天候や土壌の状況が
大きく変化するみたいです。

村の中を走っていると古い石造りの家を時折見かけます。
これは100年ぐらい前の家でしょうか(↓)
現在のヨルダンでは地方でももっぱらコンクリートブロック等の近代材料を用いた家に変わり、こうした家は殆ど見かけることができません。


ペトラにあるTaybet Zaman(タイベ・ザマン)ホテル
こうした家々を復元した客室になっています。

この家は空き家でした(↓)


玄関の上には十字架(↓)


村の中には他にも石造りの家が点在していました(↓)


そして、村の広場もこの通り、イエス・キリストの人形(↓)


教会も沢山あり、遠くの山の緑がきれいです(↓)


何でしょうか?イブラヒム神父寄贈と書いてありました(↓)


イスラム教徒に多い名前の一つにイブラヒムがあるので、
ムスリムだけにゆかりがあるのかと思い込みがちですが、
考えて見れば預言者イブラヒム(もしくはアブラハム)は
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のそれぞれに「親愛なる父」として登場しています。

さて、一息つくために町のカフェに入りました(↓)


Zuwwadeh(ズワーデ)というところで(↓)


石造りの落ち着いた雰囲気で(↓)、なかなかお勧めです。


休憩にはやっぱりこれ!
ヨルダンで一番飲まれているビール、アムステル(↓)
(ビールしか飲まなかったのですけど、メニューを見たらアラブ料理も充実、
朝10時からのアラブ・ブレックファストも有り)


アラビーな絵も飾ってあり(↓)


毎日、夜8時から生演奏もあるみたいです(↓)


ということで、今度は夜来たいと思います。

イラク人のお宅でホームパーティ2010-01-18 05:06

在アンマンのイラク人、バグダッド出身のクリスチャンのお宅での
ホームパーティに招待されました。
レストランでは食べれない(あまりにも家庭料理すぎて食べれない)、
イラク家庭料理を沢山食べれ、大満足でした。

デジカメを忘れ、携帯電話で撮影したので↓↓↓
残念ながら写真の色があまり良くないのですが、、、

前菜はサラダ類が数種類。
これは(↓)この地域で最も有名なパセリサラダ、Tabbouleh(タブーレ)です。


タブーレはレバント・クズィン(Levant Cusin)の一種で、
Levantとは昔のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、
イラクやトルコの一部エリアを指します。

(↓)イラク家庭料理、Dolma(ドルマ)です。絶品でした!
玉ねぎ、ズッキーニー、ナス、パプリカ、グレープの葉のそれぞれに、
お酢の利いたご飯とラム挽肉が詰められています。
ラムチョップも一緒に煮込まれています。


(↓)イラク家庭料理、Tabsi Bathinjan(タブスィ・バスィンジャン)
これも絶品!
ご飯、牛挽肉がトマトソースで和えられ、ナスで包まれていました。


(↓)イラク家庭料理、Kuba Yakhni(クッバ・ヤクニ)
美味しいです!
ご飯で作った団子の中に牛とラム挽肉が詰められ、
ひよこ豆と一緒に煮込まれたスープです。


これは(↓)お口直しのマンゴーのマスタード和え漬物
とっても酸っぱいのですが、この地域では良く食べられています。


中東地域の人はパーティとなると、夜は長い!
お料理もメインを食べる時間がとても遅いです。
今回は夜7時半スタート、夜11時まではお酒と前菜だけで、ひたすらおしゃべり。
火の通ったメインディッシュは夜11時に登場!

こちらは金土が休みなのですが、木曜の晩はどこの家庭も
ホームパーティを開催したり、外食したりで、賑やかです。
それで、夜9時、10時頃までは、お酒を飲まれる家庭は飲むし、
飲まない家庭はおつまみとソフトドリンクでおしゃべりタイムを過ごします。
レストランへ出かけたり、メインディッシュが登場するのは夜9時、10時、
それからひたすら食べ、帰宅は深夜。

おしゃべり好きなので、あっという間に時間は過ぎてしまうのですが、
この生活当然太ります!

今回はわざわざイベント会社から
ウード奏者と歌い手を呼んでくれました(↓)


ウードは基本的には静かなミュージックなので、
激しいアラブダンスは踊らないのが普通ですが、
フォークダンスのような簡単なステップを踏む踊りはあります。

ということで、食べたあとは無駄な努力と分かりつつ、
少しでもカロリー消費のため、ステップを踏みました!